【以呂波丸(初代)】薩摩海軍の礎である船舶と寺師正容の海洋国家構想

薩摩藩の幕末における輸入蒸気船は16隻と、幕府の購入した27隻という数字を除くと圧倒的な数を誇っていました。

西洋型の船舶においても、大船建造の禁が解かれた後に水戸藩の「旭日丸」、浦賀奉行の「鳳凰丸」とともに「昇平丸」を建造したほどの海軍国でありました。

この昇平丸は日の丸の旗が最初に掲げられた船としても有名です。

今回は、この昇平丸以前に建造されたに薩摩藩最初期の西洋式艦船である「以呂波丸」について紹介します。

以呂波丸(初代)の概要

実は薩摩藩で建造された「以呂波丸」は、薩摩造船史の一番初めの頃だけでも2隻存在します。

今回はそのうちの「初代」以呂波丸の紹介です。

漂流民と以呂波丸

江戸時代における海外情報の公的窓口は長崎の出島がその役割を担っていましたが、出島だけでなく漂流民からの情報も無視できないものでした。

以呂波丸の建造にも漂流民の情報が一役買っています。

薩摩藩の漂流民である喜三左衛門が、ロシアから帰国した際に供述したものが発端となって建造されたのが初代の「以呂波丸」です。

建造されたのは文政五、六(1822、3)年頃のことです。

もちろん、まだ大船建造の禁は解かれていない時代です。

以呂波丸の建造

建造したのは薩摩藩士である寺師次右衛門正容(まさたか)で、この人物は二代目「以呂波丸」の建造に関わった寺師宗道とその弟の市来四郎の父でもあります。

造船費用に関しては、大久保利通の外祖父にあたる医師の皆吉鳳徳とともに藩庁に願いでた結果、補助金として二千両を得て建造が可能となったのです。

藩としても「建造やむなし」との意識があったのだと推測できます。

当時だいたい同じくらいの大きさの弁才船の千石積みの価格が千両だったということです。

こういった補助金の額からも薩摩藩の本気度が見えてくるのではないでしょうか?

造船の場所は城下の大門口で、現在の鹿児島市南林寺町あたりの海岸に造船所を設けての建造だったということです。

和舟と構造のまったく異なる西洋式帆船の建造なので、その苦労は今となっては量り知れません。

寺師正容の思い

そんな寺師正容はどういった思いで西洋式帆船の建造に踏み切ることになったのでしょうか?
息子である市来四郎の「自叙伝」によると

薩摩は全国一の海国であるから、船舶の製造に心を用ひ、琉球其他の往来に就いて、年々風波の災いに遭ひ、それが為め人命を損し、貨物を毀損する事実夥しく、故に船舶は国家経綸の大本

と記述されていて、国内外の船舶の歴史や技術を研究し、さらには航海術・天文測量術を学ぶようになっていったということです。

さらに長崎でオランダ船を実見していたというので、日本にとって船舶が重要だということを早くから認識していたといえます。

要するに、寺師正容という人物は、薩摩藩だけでなく、日本にとっても西洋模造船建造の先駆者とも言える人物でした。

こういった人物ですから、件の喜三左衛門がロシアから帰国したと知るや、喜三左衛門のいる船間島まで何度も足を運び洋式船の構造を聞き出しているのも納得です。

このとき喜三左衛門から聞いたものをまとめたのが「渙象論(かんしょうろん)」で、五十巻になる書物です。

この書物は二代目以呂波丸の建造の際に藩主斉彬公に提出されました。

以呂波丸という船名

薩摩藩にはイギリスのボーイスカウトの手本になったという話もある「郷中教育」という青少年の教育制度がありました。

そこの基本精神とされているものに、「日進公いろは歌」という47首の歌があります。薩摩藩士なら誰でも知っているというものです。

寺師正容は「薩摩藩には新しい船舶が必要だ」との認識があったことは前述したとおりです。

その新しい船 ー つまり薩摩造船史の青少年期に当たる船として、藩士なら誰でも知っている「日進公いろは歌」が船名を決める際に脳裏をよぎったのは十分に想像できるのではないでしょうか?

以呂波丸(初代)の基本情報

「薩藩海軍史」にある市来四郎の証言からその要目をあげると

要目
  • 全長:約36メートル(二十間)
  • 積載量:不明
  • 三本マスト
  • 竜骨を使った西洋式の船体構造

ということで、全長以外はほとんど不明なのでありますが、縄ばしごや帆の形状も西洋船式だったとのことです。

だいたい同じ頃の船として、ダーウィンが調査のために乗船したビーグル号がありますが、これなどは全長が27.5メートルということなので、そこそこの大きさだったと言えます。

以呂波丸(初代)の艦歴

この初代以呂波丸は琉球やその他の島々との輸送に五、六回ほど使用されたということですが、大風に遭遇し、破船してしまったとのことです。

琉球を含む南西諸島一帯は台風の通り道でもあり、当時の和船では台風に遭遇したらひとたまりもなかったことでしょう。

薩摩藩が従来より、琉球との交易を海外との窓口として重要視していたのは間違いありませんが、それに伴い外洋を航海できるだけの船舶の必要性も痛感していたと考えられます。

そこに投入された初代以呂波丸ですが、建造当初に目論んだ通りの航路に就航することはできましたが結局は壊れてしまいます。

この大風が、他の西洋船でも耐えられないほどだったのかどうかはわかりませんが数回の航行をしていたのは事実であり、一定の基準は満たすほどの出来だったのではと思います。

参考:薩摩漂流奇譚

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