【安宅丸】江戸の初期最大の船は幕府にとってどういう存在だったのか?

安宅丸(あたけまる)とは江戸初期に幕府によって建造された船です。

幕末以前に建造されたもののうち、洋式構造を持った最後の船です。

今回はこの安宅丸について紹介します。

安宅とは戦国から江戸にかけての船種の一種で、いわゆる戦船の種別です。

安宅丸もこの安宅のうちの一隻ですが、固有名詞です。

安宅の安宅丸です。なんとも混乱しそうな感じがしますね。

この江戸前期に建造された船は、その巨大さや豪華さからすでに江戸後期には伝説として語られるほどになった船ですが、実態はよくわかっていません。

そんなわけ安宅丸についてです。

安宅丸とは

安宅丸は江戸幕府の初期、将軍家光の時代に完成した船です。

建造を担当したのは御船手頭の向井将監忠勝で、伊豆の伊東で建造されたと言われています。

この向井将監という人は江戸初期における国産洋式船の話には必ず出てくる人で、当時日本の所有していた洋式船建造に関する知識を一手に担っていた人であったと思います。

完成した時期は三代将軍家光の時代で間違いないのですが、その建造を命じたのも家光なのかどうかということについては議論があります。

家光の建築好きから、安宅丸の豪華な上部構造から家光建造説が出たと思われます。

時代背景を鑑みると、大阪夏の陣が慶長20年(1615年)その翌年元和二年(1616年)にすぐに下田に船番所を設け、西国大名の動向に警戒していました。

それからまだ20年が経っていない時期に安宅丸の完成させたということです。

幕藩体制の安定期に入ったと安心するにはまだ早いと考えられていた頃に建造計画は建てられたはずです。

そのため、建造を命じたのは二代将軍の秀忠ではなかったかと思われます。

安宅丸の基本情報

徳川幕府の正史でもある「徳川実紀」によるとその全長は45.5メートル。櫓の数は200丁となっていて、これが長い間通説となっていました。

しかし、「安宅御船仕様帳」と「安宅御船諸色注文帳」という史料によると、船体は洋式構造をしたいわゆる竜骨をもった船です。

これら二冊の史料から算出したものが

要目
  • 全長:約61メートル
  • 上口長:47.4メートル
  • 竜骨長:37.9メートル
  • 横幅:16.2メートル
  • 喫水:3.3メートル
  • 満載排水量:推定1700トン

※上口長:舳先から艫までの長さ

といったものであり、当時のヨーロッパの巨大船と比べても引けをとらないほどの大きさというのがわかります。

その喫水が非常に浅く作られているため、そもそもが外洋に出ることを考えた構造ではなかったといえます。

つまりは江戸前の浅い海面のみを移動することだけを想定して作られたものだったと考えられるのです。

東京大学史料編纂所にある「安宅御船仕様帳」と「安宅御船諸色注文帳」の二冊には正徳元年(1711年)向井将監との記名あり、この史料の数字の信憑性を高めています。

おそらくこの大きさが実際の安宅丸の大きさだったのではないかと考えられています。

安宅丸の存在理由

安宅丸はそのあまりに巨大な船体で、関船と比べてもスピードもでないと考えられ、無用の長物だったのではないかととされる説も存在します。

もちろん安宅丸には実戦歴はありません。

しかし、実戦はせずともその巨体であることそのものが存在理由となりえました。

というのも安宅丸の完成当時というのは幕藩体制はほぼ固まってきた時代であり、大名の陸上からの江戸攻撃というのは実質的に不可能な状態であったと考えられます。

そのため、仮に江戸を攻撃しようとすれば海上から攻め込んでくるという他ありません。

そこで江戸の防衛を考える上で移動する要塞の安宅丸の存在は必要不可欠のものだったのです。

この安宅丸の装甲も、矢倉を含む船全体を厚さ約三ミリの銅板で覆っているというものだったので守りという点に特化したものだったと言えます。

石井謙治氏の試算によると、その巡航速度は2.3ノット(時速4.3キロ)、全速でも4.9ノット(時速9.1キロ)とお世辞にも速い船とは言えません。

このような長さ45メートル、最大幅22メートル、高さ11.7メートルの全体を銅板で覆った巨大な総矢倉を持つ巨大船を、当時の大名所有の関船で沈めるのは実質不可能だったのです。

このように西国大名の海上から攻撃をしようとすることを断念させるのには十分な装備をしていました。

つまり、安宅丸の存在そのものが今だ西国大名の動向に神経を尖らせていた幕府にとって必要不可欠のものだったと言えます。

そしてその存在は象徴的な意味合いをもった船であったため、同型艦はなく、当初からただ1隻のみの建造計画だったいうことです。

以上のように安宅丸はただ派手に巨大にしたのではなく、実用的な見地からその巨大さを誇ったのであり、こういったことからも秀忠建造説が補強されると考えられます。

安宅丸の最期

天和二年(1682)に解体されたと言われています。

この前年には5代将軍綱吉が将軍宣下を受けました。

つまり、安宅丸の解体は将軍綱吉としての最初の大きな決断でした。

時代はもはや武断政治の時代ではありません。

安宅丸の維持費には年間10万石もかかったと言われています。(徳川実紀)

もはや幕府の屋台骨を揺るがすような大名は当時の日本には存在しません。

そもそもが江戸の防衛という見地から維持されていた安宅丸の役割は終わったといってもよい頃でした。

このような時期に新たに将軍になった綱吉にとっては、新しい時代の幕開けを印象づけることと、幕府の無駄な出費を抑えるという二つの面からも安宅丸解体というのは必然の流れであったのかもしれません。

安宅丸の怪談

巨大すぎて使い物にならない安宅丸が深川の御船蔵に係留されていました。

毎晩、船底から「伊豆へ行こう、伊豆へ行こう」という声が聞こえるということでした。

奇妙なのはその声だけでなく、青い光が見えたとか船全体が真っ赤に染まったとか、または泣き声が聞こえてきたとかおかしなことが続きました。

それを受けて深川の住民を安心させるために幕府は安宅丸を解体したという話です。

解体にも三十日を要したのですが、その間も声は聞こえ続けたという話です。

安宅丸解体の理由は前述通りですが、庶民には「なんであんな立派な船を?」という意識からもっともらしい理由付けがなされたのかもしれません。

そもそも伝わっている話によるとこの安宅丸は秀吉が作らせたことになっており、だいぶ背鰭尾ひれのついた話になっているようです。

この話には後日談があり、解体された安宅丸の船板の払い下げを受けた酒屋の市兵衛の女中に、安宅丸の精が取り憑いたという話もあります。

東京の江東区新大橋の橋のたもとに安宅丸が係留されていたという御船蔵跡の碑が建っています。

参考:ものと人間の文化史

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