【デ・リーフデ号】日本遠征に編成した船団の概要・行程と、船のその後

丸ビル横リーフデ号

ユリウス暦の1598年の6月27日にオランダのマゼラン会社によって編成された東洋遠征艦隊で、アムステルダムより出向した5隻のガレオン船の内の一隻がデ・リーフデ号です。(デは定冠詞)

マゼラン会社(De Magelhaensche Compagnie)はロッテルダム会社としても知られている南オランダの商人によって設立された会社です。

後にオランダ東インド会社のロッテルダム商工会議所に席を得ています。

この東洋遠征艦隊には

  • ホープ号(De Hoop)ヤコブ・マフ他130名
  • リーフデ号(De Liefde, )シモン・デ・コルデス他110名
  • ヘローフ号(Het Geloof)Gerrit van Beuningen他109名
  • トラウ号(De Trouw)Van Boekhout他86名
  • フライデ・ボースハップ号(De Blijde Boodschap)
    Sebald de Weert他56名

で編成されていました。総員496人(一説には507人)の大規模なものでした。(船名の後は各船長名)

このうちのホープ号が旗艦で、司令官はヤコブ・マフ(Jacob Mahu)、副官はシモン・デ・コルデス(Simon de Cordes)です。

この内のリーフデ号が1600年4月19日(慶長5年3月16日)に豊後の臼杵湾の黒島に到着します。

関ヶ原の戦いの半年前のコトです。

最終的に日本に到着したのはリーフデ号ただ一隻だけでしたが、この艦隊の目的地は最初から日本であり、日本側資料に残されているような「漂流して到着」ということではなかったようです。

リーフデ号の最後の船長はヤコブ・クワケルナック(Jacob Quackernaeck)でしたが、日本到着時にはかなり衰弱していたと伝わっています。

110名の乗組員がいたリーフデ号も日本到着時の総員数は24名と激減し、さらに立ち上がれるものは6名のみだったということから大変な航海であったことが分かります。

最後の船長クワケルナックは1604年まで平戸に滞在していました。

後に朱印状を授かり、ジャンク船でパタニ王国(現在のタイ南部)まで航海します。

そこから更に帰国する際マラッカ沖でポルトガルの艦隊と戦闘になり、戦死してしまいます。1606年9月21日のことです。

リーフデ号 基本情報

船種は三本マストのオランダガレオン船で、排水量は330~340トンと諸説あり、正確には分かっていませんが、少なくとも300トン以上はあったでしょう。

建造所はオランダで、おそらくアムステルダムと思われます。

建造時の船名はエラスムス(Erasmus)ですが、なぜ変更されたかなどの経緯は分かっていないのです。

日本遠征の行程

マゼラン会社

1598年の6月27日にアムステルダムを出発しますが、早くも9月23日にアフリカの沿岸でマフ司令官が亡くなってしまいます。

新たに司令官となったのはリーフデ号の船長で同時に副司令でもあったシモン・デ・コルデスで、この時にホープ号に移動しています。

副司令にはヘローフ号の船長、Gerrit van Beuningen を選んでいます。(同時にリーフデ号船長として移動)

その後1599年の1月までアフリカ沿岸を南下していますが、壊血病などで多くの乗組員が死んでいきます。

やっとの事でマゼラン海峡まで到達しますが風向きに問題があり4ヶ月もの間滞在することとなりました。太平洋に到達したのは結局9月になりました。

太平洋に到達した際には、嵐で艦隊はバラバラになって互いに見失ってしまいます。

ヘローフ号とトラウ号は、この時大西洋に吹き戻されています。

後にトラウ号は太平洋に到達することには成功したようです。

マフ司令官の死後、フライデ・ボースハップ号の船長になった Dirck Gerritszoon Pomp ですが、途中で船は崩壊し漂流してしまいます。

現在、南極にあるオランダの研究施設の名前は彼にちなんだものです。

結局ホープ号とリーフデ号だけになった遠征艦隊ですが、この二隻で日本を目指すことになりました。

その後、南米大陸の南部に住むマプチェ族との戦闘となり多くの乗組員を失います。

この戦闘の際にホープ号とリーフデ号の船長でもあり、この艦隊の司令官と副司令のシモン・デ・コルデスと Gerrit van Beuningen が殺害されます。

司令官を失った状態で、再び二隻で日本を目指すことになります。

そして新たに船長となった Jacob Huydecoper のホープ号も失い、リーフデ号一隻のみが日本に到着しました。

到着時のリーフデ号の積荷には大砲18あるいは20門、マスケット銃500丁などが含まれており、これらは関ヶ原の戦いに利用されたとのことです。

更に乗組員の一部は、関ヶ原の戦いの前哨戦となる上杉軍に対する会津攻めの際に、砲手として参加させたとの記述がイエズス会の宣教師の記録にあります。

日本まで到達した主な乗組員としては、船長のクワケルナック以下

  • ウイリアム・アダムス(三浦按針)
  • ヤン・ヨーステン
  • メルヒオール・ファン・サントフォールト

などが歴史に名を残しています。

中でも、航海士のウイリアム・アダムス(William Adams)とオランダ商人のヤン・ヨーステン(Jan Joosten van Lodensteyn)の二名は歴史の教科書にも名を残すほどです。

リーフデ号のその後

リーフデ号の乗組員は豊後で下船した後、取り調べのために獄中にありました。

この間に船は大阪「堺浦」まで廻航されています。

30日ほど停泊し江戸に向かいましたが、途中遠州灘で船がひどく破損したために急遽三浦郡浦賀湊へ避難します。慶長5年の5月のコトです。

浦賀湊では修理することは出来ず、2年以上放置された後、結局は解体されることになったということです。

さて、リーフデ号の遺品は一つも残されていないかと言うとそうではなく、船首が「貨狄尊者(かてきそんじゃ)」として、栃木県の龍江院に伝えられていました。

どういった経緯で当寺にあったのかは様々な説がありますが、いまいちはっきりしません。

現在は国の重要文化財として東京国立博物館にあります。

復元船が長崎のハウステンボスにあるのは有名な話です。

丸の内のリーフデ号彫刻

冒頭の写真は東京丸の内の丸ビル横にあります。

彫刻のある場所のそばにヤン・ヨーステンの邸宅をあったそうです。。

この彫刻は昭和55年にオランダ政府から日本政府に寄贈されたものです。

リーフデ号がアムステルダムを出発したのは対スペインの独立戦争の最中です。

今のオランダ王国に直接つながるネーデルランド連邦共和国の建国の年は諸説あってはっきりしませんが、このリーフデ号の東洋遠征はその独立を経済的にサポートするためのものだったのは可能性は高いと思われます。

そんなある種の建国の英雄の一人であるからこそ、オランダが国家としてこの像を寄贈したのだと考えると感慨深いものがあります。

この像は東京駅の丸の内方面の出口を出て、自転車置き場の横にひっそりと立ってます。

近くまで来たら一度寄ってみるのはいかがでしょうか?

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