【天地開闢の神々】造化三神とウマシアシカビヒコヂ、天常立神の関係

天地開闢

日本の神話は古事記・日本書紀の前半部分に相当しますが、記紀でも記述されている内容に違いがあるだけでなく、日本書紀では「一書曰」と10以上もの文献を蒐集して編纂されたという経緯から、同じ話でも様々なタイプのものが伝わっています。

冒頭の天地開闢から国産み・神産みの場面辺りまでは特に錯綜していて、三貴神であるアマテラス・ツクヨミ・スサノオが2回生まれたと読める程です。

国際社会の一員として、「日本人のアイデンティティ」を確立する上で自らの神話を知るということは非常に重要なことと思われますが、現代ではこれを教える機会が失われています。

そこで日本の神話を読み解くと同時に、自分に対するという意味も込めて一度整理してみようと思います。

造化の三神

最初は天地開闢からですが、ここから古事記と日本書紀では記述されていることが異なります。

まず日本書紀の書名についてですが、実は日本紀が正しいという説があります。紀伝体で編纂されていることと日本書紀に続く正史である「続日本紀」という書物名からも日本紀の方が本来正しかったのではないかと考えられます。ただし本記事では慣例にのっとって日本書紀あるいは書紀とします。

古事記では天之御中主神から高御産巣日神、神産巣日神から始まりますが、日本書紀の本文ではいわゆる「造化三神」と呼ばれるこれらの神々の記載はありません。

日本書紀の天地開闢の項では6書が別に取り上げられていますが、この内の第4書に記述があるのみで、そこでは天地が分離して地では国常立神以下の神々、一方の天である高天原で造化の三神が誕生したとという風に同時進行的に記述されています。

これらのことから少なくとも日本書紀の天地開闢の段において、古事記は取り上げられなかったということがわかります。

それでは造化の三神とは何を表した神々なのか考察していきます。

天之御中主神 - アメノミナカヌシノカミ

日本の神話大系の一番初めに出てくる神であります。単に天の中心という意味の名を持つ神でありますが、天全て、あるいは中心となる何らかの作用を表した神なのかはわかりません。

造化の三神の最初に記された神ではありますが、日本の神話理論では陰陽という二元論で貫かれていて「3」という数字に特別な意味を持たせていません。

三貴神という表現はありますが、少なくとも天地開闢を始めとした冒頭部分では陰陽、男女といった二元論です。こういった理由から天之御中主神と残り2柱の神という可能性も考えられます。

また「アメノ」とはありますが、天だけのことではなく地をも含めた全て、つまり地球も宇宙の一部であるのと同じ意味での全てを表しているのではないかと考えます。

あるいは「元始の神」といったような単にあらゆる事象の最初を神格化した観念的な意味の神かもしれません。

詳細は後述しますが、高皇産霊神と神皇産巣霊神を統合するために産み出された神という可能性もあります。

高皇産霊神は - タカミムスビノカミ

この神は後に高木神とか高木大神としても再登場する神であったり、思兼神(オモイカネノカミ)などの親神でもありますが、後に付け足された話でしょう。

古事記では高御産巣日神と記述されています。

一説では男性神という話もありますが、独神との記述があることから少し考えにくいと思われます。

この高皇産霊神は日本書紀の第4書の記述では、後述する神産巣日神(書紀では神皇産巣霊神)とともに皇産霊(ミムスビ)の読みの記載が改めてされています。

つまり皇産霊という文字にこの二柱の神々を解く鍵があるはずです。

この二神は皇室と特に関わりがあると考えられたのですが、この「皇」の文字が採用されたのは書紀の編纂時より先に皇室との関わりがあったということだけかも知れません。

ただ天孫降臨、国譲りや、関係した思兼神の親神としての記述や、思兼神が先代旧事本紀に記載されていることから、本来は大和系、中でも物部系神話(という言い方があるかどうかはわからないが)の最高神であったかも知れません。

また、ミムスビの「ミ」は神に対する接頭語であり、「ムスビ」は「結び」で、万葉集にも

君が代もわが代も知れや岩代の岡の草根をいざ結びてな (万 10)

常磐なる松の小枝(さえだ)を我は結ばな (万 4501)

とあり、長寿や多幸を祈る呪術としての意味もあるので単に普遍的な神という意味であった可能性もあります。

神皇産巣霊神 - カミムスビヒノカミ

日本書紀の天地開闢の段以降は神皇産巣霊神は登場しません。わずかに古事記に少彦名命(古事記では少名毘古那神)の親神としてや、因幡の白兎の時に少し登場するくらいで、いずれも大国主命に関係しています。

また記紀の後に編纂された出雲国風土記では島根郡、楯縫郡の段などに神魂命の名で登場します(読みは同じ)。特に楯縫郡の段では「神魂命詔りたまひしく五十足天の日栖の宮の縦横の御量は云々」とあります。この日栖の宮とは現在の出雲大社のことであります。

以上のことから出雲系の神々の祖神的存在であり、出雲系神話の最高神と考えられます。

また、高皇産霊神の神と対になっているとの考えなどから女神との説もありますが、前述通りこの説は考えにくいと思います。

この高皇産霊神と神皇産巣霊神に関しては、高皇産霊神ー思兼神と神皇産巣霊神ー少彦名命とのセットで考えると、思兼神、少彦名命がいずれも知恵の神の性質を有していることから非常に似た神と考えられます。

あるいは元は同じ神だった可能性も否定できません。

以上造化の三神ですが、高皇産霊神と神皇産巣霊神という大和と出雲のそれぞれの最高神の上に天之御中主神をおくことにより、二つの集団の統合を計ったのかもしれません。その両集団の力関係が正史である日本書紀での出演回数の多寡となったとも考えられます。

いずれにしても物部氏の出雲系神話での関わりが全くないとは言い切れないこともあり、現段階ではこの点については「よくわからない」というのが正直なところです。

あるいは造化の三神を含めた別天津神(コトアマツカミ)5神はいずれも「身を隠したまひき」と記述されているように「姿が見えない」という特徴の為、宇宙創造の時に出てきた何らかの造化に関する作用を表した ー 司ったといってもいいですが、そういった物理的作用がこれらの神々ではなかったかという考えもできます。

このように造化の三神はどういった存在なのがよくわからず、日本書紀の本文には採用されませんでした。

書紀の中で唯一造化の三神に言及している第4書の元の文献がどういった性格のものかは今では知る由もありませんが、この後に続く神話を考察することによって「造化の三神」の立ち位置がはっきりしてくるかも知れません。なので今後もこの「造化の三神」に対する考察は続行していきたいと思います。

可美葦牙彦舅尊 - ウマシアシカビヒコヂノミコト

この神も日本書紀本文には記述されていません。古事記では宇摩志阿斯訶備比古遅神として造化の三神につづいて現れた神とされています。いずれにしても漢字自体の表記には意味はなさそうです。

日本書紀では第2、第3の書では天地が分かれて間もない頃に誕生した神とあります。また第6の書では天常立神に続いて現れた神として記述されています。古事記とは登場の順番が逆になっています。

先に第6の書についていうと、天常立神と天之御中主神を混同していた可能性もあるのではないかと考えられます。

そこで古事記、書紀第2、第3の書について考察してみると、まず誕生した時期は天地が分かれて間もない頃、形が未だ定まっていなかったと書紀の第3の書では記述されています。

古事記と書紀の第2の書では「浮ける脂の如くしてくらげなすただよへる時」とあります。水の中をゆらゆらと浮いている状態です。書紀の本文には「古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子」とあり、卵の中身で表現しており、何もない空間でなく、実体を伴ったものの中を漂っています。

また、書紀の第3の書にはこの状態で回転しているとなっています。

可美葦牙彦舅尊の「アシカビ」とは葦の芽のことで、書紀の第5の書でアシカビが芽吹くようにして生まれたのが国常立神と記載されています。

つまり、何らかの作用の結果として国常立神が誕生したと読み取れます。

以上の点からこの神は生命力・成長力を神格化したものとの説明がされています。

「ヒコジ」に関してこの語を男性神と説明するのが一般的のようですが、独神という点を考えるとこの説は厳しいように思います。先入観を取り払って文脈だけから考えると「芽吹く」という動詞に類する古い表現か何かと考えるほうが素直な解釈な気がします。

では水の中を漂っている脂のような状態とはどういうことなのでしょうか?

最初に思いついたのがダークマターを水、星の原材料であるガスや塵を脂と表現したのではないか? というコトです。

確かに突拍子もない話でありますが、NASAの撮影した「天地創造の柱」の写真を見ていてふとそんな事を想像してみました。

ただ、書紀の相互の文章を見るだけでも、芽吹いたりといった何らかの事象を表しているのは間違いないようですが、植物が芽吹くといったレベルのものなら何故その登場した時期が国産みの後ではなく、天地開闢の頃だったのかという疑問が残ります。

あるいは「変化すること」を表現しただけかも知れません。

いずれにせよ日本書紀に取り上げられている複数の文献で、この神を第一の神としていることからも何らかの大きなエネルギーを具現化した存在だと考えられます。

仮に宇宙創生の頃の話だとしても、それがどういった物理作用をあらわしたものなのか、また当時の人間にこういった知識を持っていた可能性が極めて低いという根本的な問題はあるのですが、これ以上はわかりませんので、これで可美葦牙彦舅尊についての考察は終わりにします。

天常立神 - アメノトコタチノカミ

別天津神5神の最後が天常立神です。古事記では天之常立神となっています。

国常立神に対応する神で、「常立」とは永遠性を示す言葉であります。

この永遠性を神格化した神というのが一般的な解釈のようですが、単に永遠性を神格化したというのならば国常立神との関係が曖昧になります。

確かに常立神が天と地に分離したとの考え方もできなくもありません。書紀にも国常立神のみでこの神について記述されているのも第6書のみです。

ただ、この神の存在を前提とすると「天」そのものに対する美称ではないかと考えた方が整合性がとれると考えます。つまり、この神は天そのものを表現していると考えたいと思います。

以上別天津神5神でしたが、天御中主尊と天常立神の存在理由が被る可能性もあり、書紀の第6書の記述に至ってはかなり混乱しているように思えます。

次の国常立神からが書紀の本文最初に出てくる神です。国 ー 地とも呼べますが実在が実感できる対象であります。それに比べて別天津神5神の存在を実感するのは難しいということがあります。こういったことが書紀本文に記載されなかった理由なのではと考えます。

もしかしたらおとぎ話のような話でありますが、日本書紀編纂の時代より更に古い時代の人間の中には、こういった目に見えなかったり時間を越えた事象を感じ取れる人間がいたのかも知れません。

ただ伝承は伝承として実在しているのは間違いないので「一書曰」として文末に記載するという体裁を採ったのが日本書紀です。

いずれにせよ神話 ー 特に世界や人類などの創造に関する部分を記述しているものに関しては多分に古代人の価値観等によるものであるのですが、実在のものと仮定したほうがロマンがあって楽しいので斯様な考察を無理にしてみました。

現在は手元に基本的な資料しかないのですが、今後いわゆる「偽書」と呼ばれるものも含めて手に入った時に加筆・修正していきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です