【米東インド艦隊】ジェームス・ビッドルの日本開国失敗と日本の幸運

ビッドル東インド艦隊

一般的に日本の近現代史は、1853年のペリーの黒船来航から始まるとされてます。

単に来日したアメリカ人ということであればペリーの黒船来航以前にも漂流民や密入国者として渡航してきたという記録は残っています。

ただこれらの漂流民や密入国者はアメリカの国家戦略として来日したわけではないのでペリーが来航したこととは意味合いが異なります。

米国が国家として日本の開国のために使者を派遣したのは実はペリーが初めてだったというわけではありません。このペリーの来日に先行する七年前にも日本の開国を試みていたのです。

今回はアメリカが日本に開国を促すためにやってきた最初の使節であるビッドルについてと、その意図や歴史上の意義などを解説していきます。

ジェームス・ビッドルの来日

Captain James Bidle

1846年7月19日(弘化三年閏五月二十七日)に浦賀に米国東インド艦隊司令官ジェームス・ビッドルは二隻の軍艦とともに来航しました。

彼の艦隊は1845年6月4日にニューヨークを出発し、喜望峰を経由して広東に到着します。その目的は清国の特命全権大使ケレイブ・クッシングに対して日本との外交折衝を開始するための「願書」を持参していたことと、清国との望厦条約批准のための外交使節であるアレクサンダー・エヴェレットの護送でありました。

望厦条約

アヘン戦争後に清とイギリスと結んだ講和条約である南京条約等は不平等条約である。この条約と同内容の条約を欧米各国が結んだ。そのアメリカと清の条約を望厦条約という。

12月の末に広東(今の広州市)に到着したビッドルでしたが、日本との外交折衝をする予定であったクッシングは既に米国に帰国した後であり、エベレットも病に伏せてしまったためエヴェレットの代理として望厦条約の批准書の交換を行い、その後今度はクッシングの代理として日本との交渉にあたることとなったのです。

幕府の状況

ビッドルが浦賀湊に到着したのは前述の通り1846年のことです。幕府としては本来ならば外国船は長崎に向かってもらうのが原則であります。

実際18世紀末から19世紀初頭にかけてロシアの使節ラクスマンとレザノフが相次いで来日していたのですが、両名いずれも幕府の命令に従って長崎にて交渉を進めています。

但しこのビッドルの来航はアヘン戦争終結した後、最初の外交使節の来航です。幕府側に緊張が走ったのは想像に難くないでしょう。

外国船が日本の沿岸にきた際には武器弾薬は全て供出する事となっていますが、これをビッドルは拒否しています。

更に幕府側は燃料や水、食料等を供与しています。

モリソン号事件以来の幕府の「無二念打払令」は問答無用に外国船を追い返していました。これがアヘン戦争の結果を受けて遭難した船に対して、燃料等を供与する「天保の薪水給与令」とされたのが1842年のことです。

この天保の薪水給与令にしても対象は「遭難した」船でありますが、このビッドルの艦隊は明確な目的をもって来日したのであり、薪水給与令を適用する対象ではありません。そこを曲げて薪水を給与したのです。

こういった対応をせざるを得ないほどにアヘン戦争の衝撃は大きかったと言えます。

また、ビッドルの来航する2年前(アヘン戦争終結2年後)の1844年にオランダ国王から親書を受け取ります。

「薪水給与令はある程度は評価するが、開国に関してもっと柔軟な対応を期待する」といった内容で外交関係に対しての更なる注意を促すものでした。

こういった状況を踏まえた上でビッドル来航に対応したのが前年に老中首座となったばかりの阿部伊勢守正弘であったのは不幸中の幸いでありました。

日本国外の情勢は「オランダ風説書」が平戸のオランダ商館よりもたらされていたのですが、これにアヘン戦争の詳細を記述した「別段書」と呼ばれるものが付記され始めましす。

以降、このオランダ風説書別段書は本編の定期報告より重要視されていき、一種の新聞のようなものとなっていくのです。

このように既に海外情報を収集する制度は整っていたので、幕府は事前にビッドルの来航を知っていたのです。

ビッドル来航時の顛末

前述通り7月19日に浦賀に到着したビッドル一行ですが、上陸はしていません。

これ以前の7月15日あたりから異国船が浜松辺りを航行しているという情報は、浦賀到着の前日18日までには浦賀奉行所に伝わっています。

7月19日の朝に浦賀に向かって侵入してきたビッドル率いるアメリカ東インド艦隊ですが、同日中には浦賀奉行所から江戸へ報告が入ると同時に三浦半島警備担当の川越藩、及び房総半島側の警護を担当している忍藩からも幕府への報告がいきます。

翌日の20日までには浦賀奉行所の調査により当該異国船の所属国と目的が判明します。

アメリカの船が通商を求めに来たのです。

7月24日になって幕府から浦賀奉行所への指示が出され、食料等の給与し、日本側の警備体制が整った28日に幕府はビッドルに対して通商の拒絶と退去勧告をします。

ビッドルは幕府の返答に対し了承し、早々に帰国するというあっけない結末でした。

帰国前にビッドルが奉行所に謝礼を言うために乗船しようとした際、船を間違え川越藩の船に乗り込んでしまい川越藩の役人に殴打され切り捨てられそうになる事件も起きましたが、なんとか無事に帰国してもらうことになります。

通常であれば大きな外交上の事件となってもおかしくないことです。浦賀奉行所としては命が縮むくらいにびっくりした出来事だったのは、その後の謝罪と同時に警護要請を出していることから戦争も覚悟していたと思われます。

結果としてなんとかビッドル側の怒りを抑え戦闘には至りませんでした。

このようにビッドルが大して交渉もせずに簡単に引き下がり、かつ暴行されたことに対しても事を荒立てずに収束させた理由は何故なのでしょうか?

幕府の警備体制に対し危機感を持ったからなのでしょうか?

まずはビッドルの率いていた東インド艦隊の規模を見ていきます。

米東インド戦隊

一般的に東インド艦隊と呼ばれていますが、実際には英語で“Squadron(小艦隊/戦隊)”です。“Fleet(艦隊)”ではありません。

なので東インド戦隊もしくは東インド小艦隊と呼ぶのが正しいのですが、従来の呼称に従ってここでは艦隊としています。

ビッドルの率いていたコロンバスとビンセンスの2隻だけでは艦隊と呼べる規模ではありません

実はビッドルは司令官といっても階級は代将です。この代将は「将」とは付いていますが将官ではなく佐官クラスの名誉職的な階級です。

後に日米和親条約を締結したペリー提督と日本で称されるマシュー・ペリーも代将で、実際には佐官クラスだったのです。

これは何もアメリカ海軍が低位の軍人を派遣したわけではなく、単に当時の米海軍がまだまだ小規模だったというだけのことです。

戦列艦コロンバス(1819)

USS Columbus

1819年3月1日にワシントン海軍工廠で進水し、9月7日に就役した艦船です。

要目
  • 船種:戦列艦
  • トン数:2,480トン
  • 長さ:58.45メートル
  • 幅:16.28メートル
  • 喫水:7.6メートル
  • 定員:780人
  • 兵装:32ポンド砲68門、42ポンド砲24門

以上がコロンバス号の要目です。この砲門の数は穏便な通商交渉をすると言った数ではありません。

この艦は日本を退去した後、太平洋を横断して帰国します。その後米墨(アメリカ・メキシコ)戦争(1846-48)に参加し、戦争終結後ノーフォーク海軍工廠に係留されていましたが、南北戦争の勃発に伴い南軍の手に渡るのを防ぐため1861年4月20日に自沈しました。

いわゆる本質的には砲艦外交であったのはこの実践に投入可能な艦を派遣したことでわかります。

戦闘スループ艦ビンセンス(1826)

USS Vincennes

ボストン級の戦闘スループ艦です。日本側の記録には通訳時の間違えから艦名を「ボストン」されてるものもあります。

1826年4月27日にブルックリン海軍工廠で浸水し、同年8月27日に就役しました。

1826年9月3日から1830年6月8日にかけて世界一周をします。これは米国の船としては初めてのことでした。

この後は西インド諸島戦隊に所属、またグアムの訪問を含めた二度目の世界一周を経てウィルクス調査探検隊に参加、この調査は当時のアメリカの重要産業であった捕鯨業にとっては重要なものでした。

その後三度目の世界一周を成功させた後、本国戦隊に所属し、その後の来日でした。

というように来日時点までだけでも誇るべき艦歴です。

要目
  • 船種:ボストン級戦闘スループ
  • トン数:700トン
  • 長さ:39メートル
  • 幅:10.29メートル
  • 喫水:5.03メートル
  • 定員:80名(日本側の記録に200人程とあり)
  • 兵装:砲18門
  • 速度:18.5ノット

注目すべきはその速度です。18.5ノットというと現在の貨物船やタンカーよりも速い艦です。この速度の船で逃走された場合、当時の日本の船では追いつくことはできません。

以上がビッドルの来日時の東アジア艦隊の艦船の要目ですが、乗員の数からハッキリしません。当時どのくらいの人数を伴って来航したのかは日本側の記録に残っているものでも併せて700名位というものから1000名ほどという差があります。

いずれにせよ未知の国との交渉なので、陸上戦闘要員も一定数は乗船したのは間違いありません。

たった2隻の艦隊とも呼べないような艦船でしたが、その船の砲門の数は江戸湾の三浦半島と房総半島に設置してある大筒の総数の1.7倍にも達しています。

以上のようにビッドルの態度には日本の戦闘力に対する脅威からでないのは明らかです。

その気になれば一気に浦賀を制圧してしまうことは可能な戦闘力を有したビッドルが穏便な交渉を進めた理由は、アメリカ本国からの命令があったというのは事実ですが、ビッドルに対する殴打事件が発生しています。

実質的な砲艦外交を行い、その上で殴打事件が発生したにも拘らず大きな歴史的事件とならなかったばかりでなく、交渉に関しても幕府側の主張をあっさりと了承したのは何故なのでしょうか?

その理由は3つの幸運が重なったからと考えます。

幕府が通商を拒絶できた3つの幸運

阿部伊勢守正弘

まず第一にアメリカを出発した時点でビッドルは正式な使節ではありませんでした。本来の外交使節はクッシングです。しかしどういう理由か、すれ違いでクッシングは帰国した後だったというのは前述した通りです。

しかしアメリカのこの時点での使節派遣はあくまでも望厦条約の「ついで」でありました。よしんば上手くいけばという程度だったのです。未だアメリカは日本の利用価値を見いだせていない時期だったのです。

ビッドルは本来外交官ではないので、交渉を有利に持っていくという手腕に欠けていました。クッシングであれば通商を実現するまでに至らなくても何らかの譲歩を日本から引き出せたかも知れません。

それが証拠に後に冒頭でも紹介したアレクサンダー・エヴェレットはビッドルの交渉に対して不満を述べています。それ以外にもアメリカ国内でも批判はあったようですが外交のプロではないので仕方ありません。

次に殴打事件に関してですが、この事件を契機に大きな問題に発展させアメリカに有利な状況に持ち込んだり、イギリスのように賠償と称して様々な難題をふっかけることも可能だったはずです。

ただビッドルはそうしませんでした。その理由はビッドルの信仰にあったのかも知れません。

実はビッドルはクェーカー教徒の一族でありました。平和的なキリスト教の一派として有名なクエーカーです。彼自身の非暴力主義が自らに降り掛かった暴力に対して暴力で返すという選択を与えなかったのでしょう。

また、万が一このビッドルの来日が数年早かったとしたら老中首座は阿部正弘ではなく、水野忠邦でありました。

しかもこの水野忠邦は天保の改革を行った頃の忠邦ではありません。天保の改革が明らかに失敗に終わった後一度失脚し、再度老中に返り咲いた頃の忠邦です。

この復帰した忠邦は自分を失脚させた者に対する復讐に専念し、国政に関してはそれ程真剣には向き合っていなかった可能性があります。

そんな忠邦でなく、後に安政の改革を実行した阿部正弘だったのは日本にとって非常に幸運だったとしか言いようがありません。

確かに正弘も徳川の祖法である鎖国を堅持するという意思は持っていたようではありますが、柔軟に外交交渉をすることができたからこそ薪水給与令を多少曲げてでも国の安全を守る対応ができたのです。

後に日米和親条約を結ぶことになる正弘ですが、この条約は実質的には薪水給与令に毛が生えた程度のもので、不平等条約である日米通商修好条約とは意義が全く異なっているのは言うまでもありません。

蛇足ですが、日米和親条約が日本の開国という点で殊更脚光を浴びるのは欧米列強との初めての条約ということもありますが、ペリーの宣伝によるものも多分に有るのではないかと思います。

  • 手違いによるクッシングの帰国
  • その代理のビッドルがたまたまクエーカー教徒だったこと
  • 阿部正弘が老中首座に着任していたこと

以上3つの幸運が重なっていたからこそビッドルの通商交渉は失敗に終わったのであり、この内どれか一つでも違う状況だったのであれば日本は清国と同じように列強の草刈場になっていた可能性もありえたということです。

孝明天皇の御代の始まりに起きたこの事件は、国内一般にはその後に体験することになるペリーの来航ほどの影響は与えていません。

しかしながら国産の洋式艦船を建造を始めとして、新時代の脅威に対する時間的猶予が与えられたのです。この事件があったからこそペリー来航に対してもハードランディングすることなくそれなりの対応をすることができたとも言えます。

そうは言っても西洋列強のアジア侵略に最適な対応するには経験が足りません。しかも列強の侵攻は止まらず、日本へもその足音は確実に近づいてます。

次にペリーが来航する時にはアメリカの戦略も大きく転換しています。

そんな激動の時代に突入する直前の孝明天皇の御代の始まりと、阿倍正弘の老中首座就任最初のビッドルの来航という事件を日本の近現代史、幕末の始まりべきなのではと考えるのです。

突然やって来たペリー艦隊に対して慌てふためき、それだけが契機となって倒幕まで進んでいったというイメージは作られたもので、事実とは異なります。

まるで日本人は未開人であるかようなイメージは悪意があるとしか思えないものです。このイメージがいつの時代に作られたものなのかは定かではありませんが、なんとなく想像はつきます。

日本人は対外的な力によってしか変革できないという催眠から目覚めるためにも、ビッドル来航から幕末を捉えたほうが等身大の近代日本の理解ができると思うのです。

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